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ユキノ……ゆうべ、クールガールがぼくたちに語りかけたとき、ユクトがつぶやいた名だ。
「それが、きみの妹なのかい?」
オ兄サマ。
と、彼女が呼びかけた相手は、明らかにユクトだった。佐々木雪の表現を借りるなら、「合成音でありながら、唸るような搾り出すような」声。そして悲しげな声で。
かれはサングラスをかけているので、目の表情はわからない。心なしか淋しげに微笑むと、かすかに首をふった。
「ユキノはぼくを兄と呼びますが、妹ではありません。厳密には」
「厳密には?」
「生物学的には。あるいは、制度上は、と言い換えてもよいでしょう」
「つまり、言葉はよくないんだけど、腹違いの妹という意味かな。荻原氏には、娘が一人いるという噂を聞いたことがあるから」
またかすかに首がふられたが、微笑は消えていた。
「単なる噂であって、事実ではありません。三年前から、あの人は足腰が立たなくなっていますが、同時に子孫を残せる機能も失いました。結果、ぼくがあの人の唯一の子供であるという事実ばかりが残りました」
すっかり冷めたコーヒーに口をつけ、ほっと小さなため息をついた。この老成した若者の、珍しく青年らしい仕草を見た気がした。かれは言葉を継いだ。
「初めてぼくの前にあらわれたとき、ユキノは幼い少女の姿でした。ぼくと同い年だと言いました。なのに彼女は、ぼくを兄だと言い張るのです。その日から、O川公園の廃材の城は、二人の城になりました。ぼくは独占していた城主の座を失ったわけですが、決していやではありませんでした」
少女がどこに、だれと住んでいるのか、まったくわからない。彼女自身話さないし、ユクトもあえて追求しなかった。
少女はどこからともなくあらわれ、いつのまにか消えていた。それも必ず、かれが一人でいるときに。小学校にもたびたびあらわれたけれど、同じ学年にも、学校にも、ユキノという名の生徒はいなかった。
少女は少年とともに成長した。なるほど少年を兄と呼ぶだけあり、成長するにつれて、面影がますます似てきた。けれど、お互いが中学生になってもなお、ユキノという名前のほかは、どこのだれとも知れないまま。かれも好奇心に駆られないわけではなかったが、なぜか訊くことははばかられた。聞いてしまえば、そのまま少女が消えてしまいそうで、怖かったから。
「ユキノが突然いなくなったのは、母が亡くなる少し前でした。何らかの破局の兆候があったわけではありません。突然幾日も姿をあらわさなくなり、それっきり、いなくなってしまいました。ぼくは母の死とユキノの消失という、二重の喪失感にうちひしがれました」
淡々と口にするけれど、少年が味わった地獄のすさまじさは、想像を絶する。
「ユキノが消える間際、ぼくは彼女が実在しないことを、ほぼ確信していました。手を握れば温かく、ふっくらとしていましたし、たまにシャンプーを変えたのがわかるほど、髪にはコロンの匂いが含まれていましたけれど。ユキノはぼくの孤独感が生み出した妄想……あまりよい響きの言葉ではないのですが、まさに妄想だと思っていました」
クールガールとして、再び目の前にあらわれるまでは。
そう言ってかれはまた言葉を切ると、カップを口に運んだ。気持ちを静めようとしているのがわかったが、声は震えていた。
「ですから彼女は、ぼく自身なのです」
思わずかれを見た。サングラスには、ぼくの驚いた顔が映っていた。
「きみ自身って……あれは、コンピューターグラフィックではないのかい」
「ええ。コンピューターによって合成された映像です。ぼくの全遺伝情報……ゲノムを組み込まれたコンピューターによって」
ぼくの中で、様々な疑問が氷解する音が聞こえる気がした。
クールガールは、二階堂ユクト自身だった。 OMEの最高経営責任者、荻原慎一郎は、老齢に至り、体の自由も利かなくなるに及んで、二階堂ユクトを後継者に指名した。けれどもかれは申し出をかたくなに拒絶し、懐柔や圧力にも屈しなかった。そこで一つの「取り引き」が提案された。今後一切、ユクトには干渉しないかわりに、ゲノムを引きわたせというのだ。
最初、ユクトは自身のクローンを作るつもりかと考えた。そこで荻原に真意をただしたところ、
(そんな血みどろの技術に興味はないよ。わたしが欲しいのは情報だ。わたしの血をうけた、おまえという情報なんだ)
そう答えたという。何とも曖昧、かつ老獪な回答だったが、若いユクトは、あり得ることだと考え、取り引きに応じたのである。荻原の真意が、けれど、コンピューターによって、一個の人間を……かれの息子を合成することにあったとは、夢にも思わずに。
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